そのロッテルダム、ダム広場の公式行事とは多少趣を異にするのは、時間ぎりぎりまで警備の人もまばら、人垣などぜーんぜんという事前の様子からでも想像できます。
日本人の一団はバスで乗り付け、裏庭に集合し、緋毛氈の敷かれた市庁舎の表階段脇に子供を中心に整列。お二人のお出ましを今か今かと待っています。
私はというと、その日本人の一段に混じってしまうこともできた状況でしたが、敢えて一般の人の中に入って柵のこちら側に陣取りました。
ロッテルダム市はオランダの南の玄関、ヨーロッパの玄関口でもあり、近代的な街の中に荘厳な市庁舎が一際偉容を放っています。 |
12時45分 両陛下到着との情報で、正面に陣取って待つこと1時間、数台の「白バイ」の先導に続いて例のボルボS80がどんどん到着、最後にお二人がベアトリクス女王陛下と共にご到着。でもその瞬間をとらえることができず、更に待つこと1時間、隣り合わせになった元中華系インドネシア人のオランダ人とぺちゃくちゃしゃべりながら、必ず出ていらっしゃるからその瞬間をねらおうと待ちかまえていました。でも、でも悲しいかな、私の亀さんはズームレンズ無し、もう一台持っていったアナログカメラも活用しようと欲張ったために、成果と呼べる写真は無し・・・
リムジンの向こう側に天皇陛下のグレイの頭だけ写っているのがおわかりいただけるかなあ・・・ |
戦争中日本軍に抑留されていたオランダ人が抗議運動を繰り広げているというニュースはオランダのテレビでかなり大きく取り上げられていたような気がします。(あいにく言葉が理解できないために詳しい内容は分かりませんでしたが。)日本政府に補償を求めるスローガンを日本語でプリントしたお揃いのティシャツを着た一段がテレビ画面に何度も映りました。
今回、ダム広場でも、そしてここロッテルダムでもマスコミ関係者が取材できそうな人を物色している姿にぶつかり、私もマイクを向けられそうになりました。オランダ語はだめ、とか、ただ首を振るとか、そんなことで彼らは私からさっと離れて次の餌食を求めて行ってしまいましたが、私が日本人だと分かると、例の抗議運動で気勢を上げていたオランダ人男性が私の方に向かって英語で訴え始めたのです。
それまでのオランダ語の抗議がけっこう人目を引く激しいものだったので、私は一瞬どんなことを言われるのか身を固くしましたが、その男性は、「あなた方一般の日本人に対して何か要求しているわけではない、我々は抑留中食べ物もろくに与えられずにひどい扱いを受け、その心の傷は癒えていない、日本政府は自分たちに対してきちんと謝罪し補償すべきだ。」その語調は決して感情的なものではなく、冷静で、思わず私も「それはお気の毒なこと。なんと悲しい出来事なんでしょう。」と心の中で叫んでいました。
すると別のオランダ人男性が、「彼らはああやって騒ぎ立てているが、私は別の意見だ。私自身も抑留者だったし、妻はユダヤ人なので、もっともっと辛い経験をたくさん知っている。だからといって、お互い許し合うしかないではないか。明るい未来を築く努力をするしかない。私たちは彼ら(両陛下)を心から歓迎している。何も気にすることはない。」そう言って、悲しそうな表情の私を慰めてくれました。別れ際にはグッドラックといって互いに固く握手。貴重な経験でした。